神話 聖書の中で。
創世記。
単語「ジェネシス」は「始まり」を意味します。すべてのものは、までさかのぼることができます創世記の本。もともと世界は共通の(一神教的な)宗教を持っていました。多神教は創世記11章に始まり、バビロンの建物と。
源 - バビロン。
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ペルガモ教会時代。バベルはバビロンの本来の名です。その意味は混乱です。この町はハムの子クシュによって始まりまし たが、それを屈強で壮麗な王国に仕上げたのは息子のニムロデです。彼は勇敢な狩人でした。創世記 11 章の記述、また異教の歴史によれば、ニムロデは三つのことを達成しました。彼は強力な国を造りたかった ので、そうしました。自分独自の宗教を普及させたかったので、そうしました。自分の名を上げたかったので、 そうしました。彼が成し遂げたことは、途方もなく大きなことだったので、バビロン王国は世界中の王国の中 で金の頭と呼ばれました。そして彼が作り出した宗教は卓越していました。聖書はイザヤ14章と黙示録 17-18 章で、この宗教の正体をサタンのものと指摘しています。そして歴史から、この宗教が世界中を駆け 巡って、あらゆる偶像礼拝の素となり、神話のテーマとなったことがわかります。言語の違いから神々の名前 は国によって異なりますが、素はこの宗教から出ています。 ニムロデは自分の名を有名にし、彼の弟子たち は言うまでもなく、現在に至ってまでも彼は崇拝され栄誉を受けています。(イエスがご自分を兄弟に明らか にされる時までは、彼への崇拝は続くでしょう。)それもニムロドとは別の名前で崇拝され、最初に彼が崇拝 された場所とは違う神殿で崇められています。
聖書から他国の歴史を詳しく知ることはできないので、どうしてペルガモがバビロンのサタン信仰の座 となったのか、異教の古文書から調べなくてはなりません。主な資料はエジプトと古代ギリシャの記録です。 エジプトが科学と数学をカルデア人から習得し、ギリシャはエジプトからその学問を学んだからです。 科学を教えたのは祭司でしたから、その科学には宗教的なものが含まれていました。 バビロンの宗教 が、その二大国に入り込んでいった様子が少し見えてきたでしょう。ある国が別の国に戦争で勝つと、征服 者の宗教が次第に被征服者の宗教にもなっていくものです。ギリシャの星座の知識は、バビロンのものと全 く同じですし、エジプトがギリシャに多神教の知識をもたらしたと記された古代エジプトの記録が発見され ています。 このようにしてバビロンの秘義は国から国へと伝わっていき、やがてローマ、中国、インド、そして 南北アメリカ大陸においてまでも、基本的に同じ秘密の儀式が行なわるようになりました。
地上の最初の人々が信じていたのはバビロンの宗教ではないことを、聖書も他の古代史も指摘してい ます。バビロンの宗教は起源の信仰から最初に逸脱して出来上がったものであって、それ自体は起源では ありません。 ウィルキンソンやマレットら歴史家が、古代の文書から最終的に達した結論は、太古には地上 すべての人々が、唯一の神を信じていたということです。その神は至高で永遠で不可視で、その口から発す ることばによってすべてのものが存在して、その性質は愛と善と義でした。 しかしサタンは可能な限りすべ てを堕落させようと試みます。人の心も思考も堕落させて真理から離れるようにさせます。サタンは神の使 いとか被造物としてではなく、神として自分が崇拝されるようになるために、人々の礼拝を神から引き離し、 その対象を自分に向け、自分が高く崇められるよう試みてきました。確かにサタンは世界中に彼の宗教を広 めることによって、その欲望を満たすことができました。 そのことを神も認めており、ローマ書に記されていま す。「彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、その思いは虚しくなり、その無知 な心は暗くなり、堕落した宗教を信じるようになり、果ては造り主の代わりに造られた物を拝むようになりまし た。」
サタンは神の被造物(朝の子)であることを留意してください。ですから、かつては絶対的真理が人類に 普及しており、みなその真理を大切にしていたのが、のちのある日ひとつの巨大なグループが神に背を向 け、邪悪な儀式を世界中に広めたと結論できます。セム族は不変の真理を守っていたたため、悪魔の嘘を信 じて真理に背を向けたハム族の激しい攻撃のまととなったことを歴史が伝えています。 これに関して議論す る時間はありませんが、世界には二つの宗教しかなかったこと、二つのうち邪悪な宗教の方が世界中に広ま ったことを簡単に説明しました。
一神教はバビロンで多神教に変化しました。悪魔の嘘と秘義が、この町で神の真理と神秘に敵対した 結果、サタンは事実上この世の神となり、騙された人々は彼を真の主であると信じ込んで礼拝するようにな りました。
サタンが広めた多神教は、三位一体の教えから始まりました。「三つの神格をもつ一人の神」という観 念は、太古の昔からが存在していたのです。現代の神学者がなぜこのことを問題視しないのか不思議でな りません。結局彼らも先祖と同様、サタンによって真実が覆われていて、神は三つの神格から成っていると 信じ込んでいるからでしょう。 いったい聖書のどこに三位一体を裏付けることが書かれているか教えてほし いものです。ハムの子孫たちがサタン礼拝に陥って、三体神の基本概念に巻き込まれていったのと対照的 に、セムの子孫がそのような教えに騙されたり、そのような儀式に関わったりした形跡がまったくないのは不 思議ではありませんか。 もし神に三つの神格があるなら、ヘブライ人が「聞け。イスラエルよ、あなたの神、主 は唯一の神」を信じていることが不思議ではないでしょうか。セムの子孫であるアブラハムは、ひとりの神 (主)と二人の御使いを見ました。(創世記 18)
では、三位一体はどのようにして表されていたでしょうか。それは正三角形として表現されていました し、こんにちのローマでもそのように表現しています。 不思議なことにヘブライ人にはそのような概念があり ません。では誰が正しいのでしょう、ヘブライ人ですか、バビロン人ですか? アジアにおいては、三神が一つ であるという多神教の考えは、三つの頭と一つの体をもつ神としてイメージされています。三つの知的頭脳 をもつ神です。インドでは、ひとりの神に三つの形があると心の中で表現していました。それは現代の神学に なっています。日本では、三つの頭を持つ仏陀がいるそうです。
しかし最も一般的な三位一体神の概念は、1. 老人の頭が父なる神を表す。2. 一つの円が種の謎を意 味し、そこから発展して御子を意味する。3. 羽と尾を持つ鳥(はと)。これが父と子と聖霊の教義、三つの神 格からなる神、本当の三位一体ということでした。同じことをローマで見ることができます。 さて、悪魔と悪魔 の崇拝者の方が、信仰の父アブラハムとその子孫よりもよく真理を理解しているというのは不思議ではない でしょうか。サタン崇拝者の方が、神の子よりも神を知っているというのは不思議ではないでしょうか。しか し、これが現代の神学者が三位一体について語るときに使う手法です。今からずっと、このひとつのことを覚 えていてください。 これらの記録は事実であり、事実とは、サタンが嘘つきであり、嘘の生みの親であり、彼 が光を装って現れても、それが嘘でしかないことです。サタンは殺人者です。サタンによる三位一体の教義 がこれまで何百万もの人を殺してきたし、これからも殺していくことでしょう、イエスが再臨されるまでは。 歴史をふり返ると、父と子と聖霊の概念が変わって現在の形になるまでにそう時間がかからなかったよ うです。サタンは慎重に、少しずつ信者を真理から引き離していきました。そして現在はこのような形に発展 しました。1. 永遠の父。2. 神の化身である人間の母。(考えさせられませんか?)3. 神の子、託身の結実。(女 の子孫)
しかし悪魔はまだ満足しません。まだ間接的にしか、自分が崇拝されていないからです。そこで彼はま た少し、人々を真理から引き離します。秘義を通して人々に、偉大な不可視の父なる神は人間に関心を示し てはおらず、人間のすることに沈黙していると囁きます。そうすることによって、沈黙のうちに悪魔も崇拝の恩 恵にあずかることができるようになるからです。実際それは、悪魔の存在に目をつむることを意味します。こ の教えも世界中に広まり、今インドでは、偉大な創造主なる神、沈黙の神に捧げられた寺院はほとんどあり ません。
創造主である父をあがめる必要がないのなら、崇拝の対象は当然ながら「母と子」に向かいました。エ ジプトでの母と子はイシスとオシリスでした。インドでは、イシとイスワラ(なんと似通った名前でしょう)。アジ アではシベレとデオイウス。ローマとギリシャはエジプトの神話を継承し、中国も同様。 ローマ・カトリックの 宣教師が中国に入って、聖母子像を発見したとき、どんなにびっくりしたことでしょう。赤子の像の頭からは 光線が発していました。顔の形の違いさえなければ、その像とバチカンの像を取り替えても構わなかったこと でしょう。
それでは、母子像の起源をたどることにしましょう。起源であるバビロンの神の母はセミラミスで、東方 ではレアと呼ばれていました。彼女の腕に抱かれた子は、赤子であるのに背が高く力持ちでハンサムで、特 に女性の心を魅いたと記されています。彼はタンムズと呼ばれていたと、エゼキエル 8:14 は記しており、 古典文学にはバッカスという名で登場します。バビロンでは彼はニヌスでした。 なぜ、彼は母に抱かれた赤 子であるのに、偉大な勇士として記されていのでしょう。その理由は、彼が「夫、兼息子」として知られていた からです。彼の称号の一つは、「母の夫」でした。インドでこの二人は、イスワラとイシとして知られ、イシ(夫) は赤子として自分の妻の胸に抱かれています。
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