渇き。
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渇き。
William Branham.完全なアカウントを読む...
渇き.さて、今晩お話ししたい言葉は聖書からの一言で、それは、2節目にある、「渇き」という言葉です、その 言葉「渇き」。辞書でその言葉を見ていました。この言葉を調べている時、私は以前に話した説教にかんして 考えていました。「命への渇き」そしてそれもその詩篇から取ったものでした、ダビデが、「 あなたの口のおき ては、わたしのためには命にも勝るものです」そして私が見ていて、その言葉「渇き」について考えていまし た、さて、その辞書を調べてみてその意味が分かりました。そしてここでウェブスター辞典が何と言っている か、「痛みを伴う切望、痛み、何かを欲しいとひどく望むとそれは痛みとなる。」
さて、渇きを何かに持つというのは不自然な事ではありません。渇きは自然なものです。神が我々に何 かをしたいという思いを与える事なのです。時々、神様はこれらの異なる切望を制御すしてあなたがその中 に座る何か、コントロールタワーを与えて下さるのです、彼にとってそれが必要な事であるという、警告をその 切望に対して与えて下さるのです。
さて、ふたつの種類の渇きがあります。肉体的な渇きと又霊的な渇きがあるのです。これを読みたいの です、ダビデが再び言っています。「わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。(詩篇42:2)歴 史的な何かでも何年も前に起こったことでもなくあるいは誰かが話した話でもなくそれは生きる神への渇 き、それは常におられるのです。そして彼の神への魂の渇きは、ある歴史的な物ではないのです。
さて、我々は神が制御のやぐらを下さる事が分かります、あなたに必要なものを与えて下さるのです。さ て、あなたの中にいる制御のやぐらがあなたを導くのです。そしてこの渇きがこの制御のやぐらの上に居てあ なたの必要が何かを告げるのです。霊的に言って、その体の中に在る制御のやぐらは魂の中にもまたあるの です。体の中に在る制御のやぐらは、体の必要を告げるのです。そしてそれを渇きによってもたらすのです。 又、魂の中にも制御のやぐらがあり、それがあなたの霊駅な必要についてつげるのです。そしてあなたはこれ により、どのような人生があなたを制御しているかが言えるのです。これによってあなたの切望する事が分か る時、あなたの中にこの要望を持たせているものが何なのかを言う事が出来るのです。分かる様に、ある一 定の事にあなたは渇きを持つのです、そしてそれがあなたの魂の中に何がいるかこの要望によって、あなた の物渇きの性質によって言えるようになるのです。そのことが理解できるように望みます。
魂の制御のやぐらがあります、そして体にもあります。そして各々のやぐらは他の物の必要に対する警告 の叫びなのです。各やぐらはその必要を呼び出します、欲しがっている人が言っている物ををです。それが警 告の波を送り出すのです。例えば、肉体が身体の要求を満足する肉的な渇きがあり、そして例は魂の中に在 る要望があります。そして多くの場合、これらはお互いに敵対して戦いになるのです。
我々は今日の大きな問題がある事が分かります、あまりにも多くの人々は、二つの要望の間に生きよう としているのです。片方は地に着くものを望み、他の方は天的な物を欲しがっているのです。
パウロが言った様に、それはローマ書の7:21に「そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込 んでいるという法則があるのを見る。」良い事をしようとしている時、そういう経験はありませんか、クリスチャ ンの皆さん?価値のある何かをしようとしている時、何か良い事をしようとしている時、悪魔が全ての手にあ ってあなたを怒らせようとするのを見つける事。あなたがした全ての事、そしてそれは良い事、、、これを言い たいのです、クリスチャンは知っていると思います、あなたが何かを始めようとすると、何かが止めるために起 こらせようといつもそるのです。それは悪魔がそこにいて、正しい事をするのをとめようとしているのです。
さて、何度も、人々に会う時若干ドキドキする傾向にあるのです。彼等が何かをしようとしていて全てが 両方向でブロックされてしまっているのが分かる時に、彼等は言うのです。「それはきっと御心ではないのか もしれない」分かりますね。さて、悪魔にその様に嘘をつかせないでください。初めにそれが御心かどうかを 見つけるのです。そしてもしそれが御心かどうか知りないならば、聖書を見て下さい。神の御言葉がはっきり と導いてくれます。そしてその時、もし御言葉の中でそれがあなたがすべきことと分かると、例えば、聖霊の バプテスマを求める事。
多くの場合、人々の所に行くと 言うのです。「えー、聖霊を求めましたそして私はそれを受けられなか ったのです。それは私の為だとは信じられません。毎回起きると病気になるのです。そして祈りに行くと、、、 もし私が断食すると病気になります。そしてもし一晩中起きて居ようとすると、眠くなるのです、足が離れられ なくなります」覚えておいてください、それは悪魔なのです、神はあなたに聖霊を持たせたいのです。それは 誰でも受けたいものの物なのです。
多くの時に、神の癒しのためのミーティングで祈っている時に、そして次の日、あなたはうたがいもなく、 悪魔が前日の2倍ひどくしている事に気が付くのです。覚えておいてください、それは神があなたに与えた 祝福からのがそうとサタンがしている事なのです。あいつの言う事なんか聞かないでください、常に前に進ん でいきましょう。
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さて、まず自然な渇きの幾つかについて話していきましょう。例えば、水への渇きを取りましょう、ダビデ がここで言っている様に、水への渇き。水を飲みたいという渇き、身体は水を必要とします。そしてもし水を飲 まないならば渇き、死んでしまいます。脱水状態になり生きられなくなるのです。その渇きへの水を得られな いならば、自然体への渇きを潤す為にすぐに死んでしまいます。もう長くは生きられません。食べ物がなくても長く生きる事は可能ですが、水なしでは難しいのです。なぜならば、40日間断食する 事が出来るからです。イエス様もされました、食べ物なしに、しかし水なしにはそれh℃長くは出来なかった のです。ただ脱水して渇き、死んでしまうのです。水がなくてはなりません。そしてその渇きはあなたに来るの です、というのは、生きるために何かを必要であることを示しているのです。身体は生きるために水を得る必 要があります。あなたは80%以上の水と石油で出来ています、とにかく、これらを得ることによって生き続け るのです。私が言った様に、それを大切にしないならば、あなたは死にます。
渇きは警告でもあります。渇きは目覚まし時計なのです。魂に目覚まし時計がセットされてあなたの中 の小さなブザーが鳴るのですそして死が近づいていることを告げるのです、もしすぐに水を得ないならば死 んでしますと言うのです。そしてそれは終にどんどん置き去りにして言って死ぬようになるまで大きな音にな っていきます。何故ならそれは警告時計だからです。
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さて、そこには素晴らしい学びがあります、分かりますね、ダビデは、ここで言っています、「神よ、しかが 谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。」さてそのシカは水を見つけない限り死ぬことを知っ ています。彼は生きられないのです。何度も彼等を追跡したことがあります。けがをした後、彼等が水に着く 時、水を得ると丘に上がって行くのです、そしてまた降りて行き、渡って、水を得て、又昇っていく。彼を捕まえ る事は彼がその水の流れを追っている限りできないのです。しかし一度その水の流れから離れた時、そして 他の水を見つける事が出来ない時、すぐに彼を捕まえられます。そして今、シカはそれを知っています、だか ら水の側にいるのです、彼がすぐに行ける様に。
さて、彼の鼻が上がっているシカを想像できますね、水がない所ではつかまってしまうのです。又彼は、「1 神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。2 わが魂はかわいて いるように神を慕い、いける神を慕う。いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。そうでな ければ死んでしまう」そして男性あるいは女性、少年或いは少女が神に対してそのような渇きを持つとき、彼 は何かを見つけることになります。分かりますね。
しかし我々がそれに来た時、ある意味途中なのです。「さて、膝まづいて主が何をされるかを見る。。。」分 かりますね、あなたはまだ本当に乾いていないのです。死と生の間にある渇きである必要があります。そして その時何かが起こるのです。
そのシカも又、ここで、彼は、、、我々は彼には又、他の感覚、臭覚があり、彼の敵が近くにいる時に警告 を発します。彼はこの小さな動物には彼自身を守る感覚が備わっています。又彼は彼の中に小さな目覚ま し時計の様なものを持っています、小さな何か、敵が近くにいると鼻がくすぐったくなる。敵の風の中で、彼は あなたが居ると知るのですそして彼は逃げます。時々、あなたが半マイル先に居て匂うと逃げます。あるいは オオカミあるいはいかなる危険も、彼は掴むのですと言うのは彼はその様に創られているからです。彼は自 然によりシカなのです。そして彼が生きるために神が得た感覚の一つが彼の中にあるにすぎません。
そして今、私はシカと人の中に在る神への渇きについて比べています。敵がそこに来る前、何か神の子 供達について神の御霊の内に一度生まれた時には、聖霊のバプテスマを受け取った時には何か人につい て敵に関する感覚を持っているのです。ある人が聖句を取ってその聖句を読んで何かをその聖句の中にい れようとしている時その聖句に反していることを聖霊に満たされているならば即座にそれを見分けられる感 覚があるのです。何かが違う方法になっている事。彼がある場所に着く時、そして小さな特定の感覚がそこに 在ります。。。それがあなたの命を守るのです。それが御言葉出るという間違いのない事実がない限りどこに も行ってはいけません。神の御言葉にしっかり近くに留まる必要があるのです。そして今、聖霊が我々の内に ある限りその感覚により我々は安全に守られているのです。
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他にも肉的な物、自然な、渇きが魂の渇きの中に在ります。「魂が乾くというのは、自然な事なんですか ブラナム兄弟?」というかもしません。は、魂の渇きというのは自然な事です、そしてそのために、神がこの方 法によって、神に乾くように我々を作られたのです。彼はあなたに彼に乾いてほしいのです。さて、神はその様にあなたを創られました。その様にしなければならなかったわけではないのですがそう されました。そしてもし彼がその様に創られなければあなたには渇きはないのです、裁きの場によって言い訳 がある様になります、「神への渇きを持った事は無かった」と、しかし言い訳はありません。持っているからで す。何とかする必要があります。妻によってあるいは車を持つことによって、他の事で、教会に行く事で、それ を満足させようとします。そして、教会に行く事に反対していませんが、それは満足にはならないのです。神 を見つける為、生きる神、天の神があなたの魂の中に入りその渇きと切望を満足させるのです。さて彼が神 との交わりの為に神にたいする渇きを持つように創られたのです。
さて、純粋な交わりへの渇きがあります。我々はお互いに会う事が好きです。今晩そうしています。ここ で一緒に今晩会っていますと言うのは、お互いに交わりするのが好きだからです。どうしてそうするのでしょ うか?それは我々の中に何かがあるからです、それがお互いに会いたいと思わせるのです。それはただ自然 な事なのです。そして今、ここ共通の場で会うのです。我々は神への渇きを皆持っているからです。 そしてここで定期的に共通の場で交わりをして会っています。教会で今晩、ここで、多くの異なる宗派 教団などの味方があるかもしません。しかしその渇きに来ると我々は共通の場で会うのです、一つの場所、 我々は皆渇いているのです。ある人達は滴礼を信じているかもしれません、他の人達は浸礼そしてある人は 注ぐこと等など。しかし神への渇きという事になると、共通の場所で会うことが出来ます、一つのグラウンド、 我々は皆渇いています。ある人は滴礼を信じているかもしれない、他の人は浸礼そしてある人は注ぐことあ るいはその他。。しかし神への渇きについて言えば、共通のグラウンドに来られるのです。そして神は我々は その様に創られたのです、彼への渇きと彼との交わりを持ちたいという渇き。
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